ハーバード・ビジネス・レビューの記事ブログにホンダがアメリカへ進出した時のホンダの戦略についての興味深い記事が掲載されていました。以下に翻訳文を掲載します。長いので二回に分けて投稿します。

 

1958年、ホンダは川島喜八郎と彼の部下をアメリカへ派遣し、アメリカ市場開拓を託した(川島はやがてアメリカホンダの社長となる人物である)。当時、ホンダはいかなるマーケットリサーチの類も行わず、アメリカについての知識は極めてわずかしかなかった。アメリカ到着時、川島は次のように言った。「こんなに広大で豊かな国と戦争するなんて、どうして我々はあれほど愚かになれたのか?」

当時、日本は戦後の貧しく資源の乏しい国で、工業インフラと消費者市場を再建している最中だった。(ホンダの経営の)すべてが最低の予算とカンで行われていた。しかし、ホンダはその社名の由来となった創業者本田宗一郎がもたらした強力な起業家精神を持つ会社であった。

本田宗一郎は休みなく新しい技術と製品を研究し、彼の会社を成長させるためにリスクをとり続けた。総当たり攻撃的経営分析や経営計画に頼るよりも、経営資源の欠如は時として会社をクリエイティブでフレキシブルにさせる。

ショッキングなのは、当時のホンダには将来への計画がまったく欠如していたことだ。川島が振り返る。「我々には戦略などなく、ただアメリカで何か売れないかと考えていただけだった」

本田宗一郎の読みでは、アメリカ人は日本人より長距離を移動しなければならないことと、そのエンジン性能から、大型オートバイが最高の賭けであった。

彼らが創業者のこのアイデアにかたくなに固執していたなら、ホンダは辛酸をなめ、自動車の歴史に単なる足跡を残すだけで終わったことだろう。しかし、ホンダはオープンで起業家的であり続けた。

ホンダがアメリカでオートバイを売り始めたところ、ホンダのもっとも大型のオートバイでさえアメリカ人ライダー達には堅牢性が十分でなく、エンジントラブルが発生した。

本国の技術者達がエンジンの設計を改善するのを待つ間、アメリカのホンダ社員は営業を続けた。彼らは彼らの50cc小型軽量バイク、スーパーカブでロサンゼルスの道々を使い走りのように走り回った。

当時の誰もがスーパーカブはアメリカ市場には不適切であると考えていた。小さすぎ、パワーが足りず、既存の顧客基盤もない。しかし、このバイクは地元住民から極めて多くの注目を集め、そのバイクを売りたいという電話をシアーズのバイヤーから川島が受けることとなった。

電話を受けた川島は当初あまり乗り気でなかった。しかし、シアーズのバイヤーの熱意と、ホンダの大型バイクの売上欠乏が、最後には彼を前向きにさせた。

引用元

(続く)

(初期のホンダスーパーカブ)

 


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