本田神父はさらに続ける。

「歴史を推し進めた人達は、例外なく貧しく小さくされた者でした。アブラハムは本当の寄留者でしたし、モーセは追手をかけられた逃亡者でした。あのダビデも、「エッサイの子」と呼ばれ、時の王から追手をかけられ、逃げまわっていたとき、そのように小さくされた者であったときには預言者たちが注目し、神のはたらきの担い手としての役割を果たしていた」

聖書は、神が社会的に恵まれた人たちを選びの民として救ってきたわけではないことを証言している。むしろ、もっとも貧しい人々、その中でももっとも虐げられた人々を選んできた。

その中でも究極はイエスだろう。イエスは、婚前に妊娠が発覚して一族郎党からつまはじきにされていたマリアの子供として生まれ、その誕生の祝いにかけつけたのは当時蔑視されていた「博士」こと占い師や羊飼い達であった。イエスは、出産時になっても宿屋からつまはじきにされ、やむを得ず家畜小屋で生まれたのである。

成長しても定職につけず、当時罪びとが就労していた石切りの仕事をして生計を立てていた。塵肺にかかることも多かったとされるその仕事は、まさに社会の底辺にある職業だった。そして、イエスはその後も定収もなく、「食べ物に意地汚い酒飲み」としてさげすまされ、最後はみすぼらしく処刑されてゆく。

クリスチャンは、往々にして自分たちこそ神に救われ、選ばれた「選民」であると思いがちだ。これは、特に福音派のクリスチャンにありがちな考えであろう。「自分は神に救われたクリスチャンだ。だから他の人も救いに導く義務がある」と。

しかし、漏れはこれはある種非常にトンデモない考えだと思う。自分で自分が神に選ばれているなんて考えることは、自分本位主義の大変恐ろしく傲慢な考えだ。誰が神に選ばれて、誰が選ばれていないなんてことを、そもそも神ではない人がどうして知ることが出来よう。

こう言うと「いえ、聖書にちゃんとそのように書かれていますよ(例ヨハネ3:16-17)」と反論されるかもしれないが、聖書は一方で、何度も言うが、もっとも貧しい人々、その中でももっとも虐げられた人々を選んできたとも証言している。しかも、そのようなもっとも虐げられた人々は、少なくとも「自分は神に救われた、選ばれた」などと考えてもいなかったに違いない。漏れは、実のところそのあたりに神の摂理の偉大な一面を見るような気がするのだ。

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Column "Hitorigoto"

力は弱さの中にあってはたらく Part3