ということで、漏れは什一献金はクリスチャンの義務ではないと改めて主張する。しかし、漏れは別にクリスチャンは献金を絶対にしてはならない、もしくはするべきではないと主張しているわけではない。むしろ、教会を支えるのはクリスチャンの義務であると考えている。問題なのは、教会ないし牧師が什一献金を義務化し、教会員に強要するということなのだ。その前提で、教会員が自主的に収入の十分の一を捧げるというのはまったく問題ないし、十分の一どころか十分の二でも十分の三でも自ら進んで献金することは全然問題ないと考える。また、教会が最初から「うちの教会は什一献金を教会員の義務としています」と説明し、それに納得して教会員となって什一献金を捧げるというのであればまったく問題ないと思う。

一方で問題なのは、牧師が生活基盤を教会員の献金のみに依存してしまうと、その瞬間から教会の運営そのものが大なり小なりビジネス化してしまうことだ。つまり、牧師の給与の財源を献金という元来非常に不安定なものに置いてしまうと、牧師の生活も非常に不安定になってしまう。それゆえ、通常の生活志向を持つ牧師であれば、自らの収入を安定させたいと願うであろうから、教会員の什一献金を義務化して献金収入を安定させ、自らの収入を安定させようと考えるであろう。つまり、牧師にとって教会員が「お客さん」または「売上」になってしまうのだ。そうなると、牧師は「お客さん」をリピーター化・優良顧客化させる方向に傾斜して教会を運営するようになってしまうであろうし、アグレッシブな牧師になると、より多くの「新規客」を獲得するための活動を盛んにしてしまうであろう。実際、そのような教会は少なからず存在する。

以前、ネットで本業が牧師で副業が弁護士だという人を見かけたことがあるが、漏れの正直な意見としては、今日の日本において教会を健全に運営出来る牧師、特にカトリック、聖公会、メインラインのプロテスタントのようにある程度の組織的基盤を持たない教会を健全に運営出来る牧師というのは、この種の経済的に自立している牧師なのかもしれないと思う。日本ではクリスチャン人口そのものが少ないし、牧師の生活を教会員の献金のみによって維持することは、とりわけ戦後に発足した多くの教会においては、教会員に余程の負担を強いない限り、ほとんど不可能だと思われるからだ。

什一献金はクリスチャンの義務ではない。そして教会や牧師がそれを強要することは間違っている。さらに、什一献金をしないことを「神のものを盗んでいる」などと非難することはそれ以上にとんでもないことだと思う。そういうことも含めて、漏れはこれから教会へ行こうと考えている人には、什一献金を強要する教会には行かない方がいい、いや、行ってはいけないとアドバイスする。自分が行こうと考えている、もしくは今現実に行っている教会がそうなのかどうかを知りたいという人は、私でよければ相談に乗るのでコンタクトして下さい。

願わくは、世のすべてのキリストの教会が什一献金を強要せず、信徒自らの自由献金によって豊かに満たされんことを。

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Column "Hitorigoto"

Vol.43「什一献金」はクリスチャンの義務ではない Part3