一方、キリスト教では神が全世界のすべてを支配しておられるとも考える。そのすべてには我々自身は無論、我々の日々の糧から毎月の月給までも含まれる。もちろん、我々が所有権を主張する自宅や土地、預貯金、投資有価証券、家具、車、ペット等々、文字通りすべてのものが含まれる。

 逆に言うと、我々人間が「所有している」と考えているものの本当の所有者は神であり、我々はそれを一時的に「所有していると考えている」に過ぎないとも考えられる。これをキリスト教では人間をして神の資産の「善良なる管理者」であると教えるが、かいつまんで言うと、人間ははかない人生という時間の中で、神の所有物の一部を部分的かつ時限的に管理するだけに過ぎないという風になる。

 となると、キリスト教では本質的な意味において個人資産は認めないのかというと実のところはそうではなく、きちんと認めているのだから話がややこしくなってくる。新約聖書マタイ福音書の中に金持ちの青年をめぐる有名な個所があるが、どうすれば永遠の命が得られますかという問う青年に対し、キリストは「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と答えている。

 つまり、キリストは青年の個人資産をきちんと認めているのである。しかし、認めてはいるものの、青年がそれを所有し続けることについては否定的になっている。このコメントの直後に「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしい」とも発言している。これをどう解釈するかは神学的な素養のない漏れには極めて難しいが、多分、青年がどんな形であれ個人資産を形成することに成功したことは認めるものの、それを社会的に分配することを何らかの形で考えろ、ということを伝えたかったのかも知れないと漏れは考える。もっと言うと、資産を相続したにせよ、あるいは自ら稼いだにせよ、いずれにせよそれらは神から頂いた賜物なのだから、それを独占しないで困窮している人にも分配しろということを言いたかったのかもしれない。

(続く)

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Column "Hitorigoto"

Vol.36 神への確定申告 Part.2