ヨシュア記(および他の旧約の記事)の多くの読者は、ヨシュア記の神と神の選びの民との関係を記した記述に登場する一連の戦闘行動に深く悩まされるであろう。少なくない 数の読者が、ヨシュア記の著者の持つキリスト以前(またはキリスト潜在期)のモラル観 を根拠にして、自らの倫理的呵責を和らげる。つまり、それ(ヨシュア記の著者のモラル 観)を拒絶し、超越しなければならないとするキリストの教えより前に展開された考え方 であるとする理解である。それゆえ、ヨシュア記の記述の主題は、キリスト者に対する挑戦と考えるのである。

 いずれにせよ、理解しておかねばならないのは、ヨシュア記それ自体は戦争に関する 倫理的疑問を、人間の究極の目標と結び付けて論じていない点である。あくまでもモー セ五書の中で開示される、神からの恵みと裁きの相互作用とともに展開される贖罪の 歴史の文脈として理解されうるのである。その文脈において、ヨシュア記はモーセ五書 の直接の続きの物語なのである。

 ヨシュア記はイスラエルの英雄世代の叙事的記述ではなく、神の力とともに行われたカ ナン征服の物語でもない。ヨシュア記はむしろ、世のすべてが属する神が、贖罪の歴史 のある瞬間において、カナン人の誤った神に寄り頼む姿勢と彼らの武力をもってカナン 人自身の土地とした彼らの土地を再征服した物語なのである。神がいかにして彼の選 びの民を組織し、神のしもべヨシュアのリーダーシップのもとに神の軍隊として仕えさせ、 偶像の手からカナンを奪い返し、カナン人(その当時のカナン人の罪は最悪レベルに達 していた。創世記15:16とその解説を参照)を離散させたかを記している。ヨシュア記はさらに、神がいかに(カナンを奪い返し、カナン人を離散させるという)神の民の事業を支援し、イスラエルの祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブと神が交わされた約束の実現として神の土地の条件付所有権を与えたかを記している。

 ヨシュア記は、それぞれの国家及び政治組織がそれぞれの神を創造し、それぞれの力の証とした時代における、神の国のこの世の国への介入の物語である。それゆえ、カナン人に対する主の勝利は、イスラエルの神こそ唯一の真の生ける神、絶対的な神であることを世に証言しているのである。さらに、圧倒的な神の国の出現は、最終的にはそれを抵抗する者への相続を拒否し、主を認め、主に仕える者にのみ地を与えることを伝える、この世の国々への警告でもある。購いと裁きの同時の御業であり、歴史の結果を伝えるものであり、創造と人類の最終的な運命を予期させるものである。

 カナンの戦いはそれゆえ、主の購いの計画に基づき、歴史のある瞬間に行われた主の 戦いである。神はヨシュアのもとに集められた彼の民に、剣をもって世界を征服する許 可や権利を与えたのではなく、特殊で限定的な使命を与えられたのである。征服された土地は征服の権利としてイスラエルの国家的所有とされたのではなく、主に属していたのである。そのため、その土地は、異教のすべての残滓から清められる必要があった。異教の民もその富も、イスラエルを富ますための戦利品とされたのではなく(第7章でアカンが試みたように)、あくまでも神の禁令の下に置かれたのである(神に奉げられ、神が喜ばれるように分け与えられるため)。その土地において、イスラエルは神の義の律法に忠実な国家を建国し、他の国々への証人となるように求められたのである。もしイスラエルが不信仰に陥り、カナン人の文化や習慣に従うようになれば、その見返りとして主の地における彼らの居場所を失うことになる。 − イスラエルが師士の時代に陥りそうになり、また、バビロン捕囚の時代についに陥ってしまったが。

 戦争は、人類が自身の不義的手段によって地を所有しようと試みる際に自ら招く恐ろし い呪いである。しかし、それも、神の証言や警告に耳を傾けない者、神の律法に反抗し、神の恵みを拒絶するすべての者を待つ呪いの前に青ざめるであろう。第二のヨシュア(イエス)の神は、第一のヨシュアの神でもあった。現在のこの瞬間においては、福音を通じて世界中に神の御手が届いているが(すべての国に対する平和のメッセージを至急届けよという神の民への命令も)、彼の裁きの剣は彼の羽の下に隠されている。そして、彼の第二のヨシュアは、いつの日かそれを巧みに使うことになるであろう(黙示録19:11-16とその解説を参照)。

聖書関連資料

ヨシュア記における征服、および戦争の倫理的疑問について
NIV Study Bibleのヨシュア記解説ページの翻訳