科学者は神を信じられるか ジョン・ポーキングホーン著、 小野寺 一清翻訳

 ケンブリッジ大学総長を務めた理論物理学者で、現在は英国国教会の司祭として教職を司る著者によ る科学とキリスト教の「相互関係」について考察した良著。科学者としては量子力学の分野における権 威で、キリスト教の教職者としては司祭の立場にある人物による洞察は炯眼で、読んでいて唸らせられ るところが多い。科学とキリスト教とを対立する関係ではなく、いずれも「世界を正しく理解するため に必要なもの」であるとし、前者はそれについてのHowを、後者はWhyを求め、「真実の探究」という 目的において一致しているとしている。また、神が宇宙を創造した初めからのプロセスは未だ進行中で あり、いずれ到来する終末へ向けて人間と協業して展開しているとした件は非常に説得力があった。

 また、祈りについての考察も絶妙で、祈りを「人間の意志と神の意志とのコヒーレントな関係」であ るとし、さらに我々が祈るのは「本当に我々が何を望んでいるかを言葉で言い表すようように呼び出さ れる」からだとしたところも実に説得力があった。

 本書は科学者による書であるので、神学的考察が科学的なたとえを持って展開されるところが多く、 「バタフライ効果」「カオス理論」「光の波動説」「バックグラウンド放射」「ERPの思考実験」とい った複雑な科学理論から多く引用される。しかし、小生のように科学の知識を持たない人間でも十分 理解できるように砕かれて解説されており、読んでいて難解な感は覚えない。なお、このあたりは翻訳 者の労に感謝すべきところであるとも思われる。

 一方、キリストの復活の根拠についての記述については、キリスト教信仰を持たない日本人にとって は簡単に咀嚼できる部分ではないとも思われ、クリスチャンではない大部分の普通の日本人ならばどの ように読むのだろうかと興味を覚えさせられた次第である。

 いずれにせよ、科学と宗教のポジティブな相互関係について学べる良著であることには間違いない 。本書がブルーバックスから出版されたのは多分に日本の科学者、または理系の学生読者を想定対象と したためと思われるが、普通の日本人でも十分に楽しめる本だと思われる。一読をおすすめする。



説得 エホバの証人と輸血拒否事件 大泉 実成著

 本書は、1985年に川崎で起きたいわゆる「大ちゃん事件」についてのルポルタージュである。「大ち ゃん事件」とは、当時10歳の男子小学生がダンプカーに轢かれ、聖マリアンナ医科大学病院に救急搬送 されたものの、エホバの証人の熱心な信者である両親による輸血拒否により輸血治療が行われず、結果 的に死亡させてしまったという事件である。エホバの証人の教義である輸血拒否を社会に知らしめる結 果となり、1993年にはビートたけし主演でテレビドラマ化もされている。
 さて、本書は、著者の大泉氏が実際にエホバの証人の研究生(キリスト教で言う求道者)となって教 団内部に潜入し、その実態をあからさまにレポートしたものである。エホバの証人は極めて閉鎖的な組 織として知られているが、本書は、その閉鎖的な組織の内部で何が行われているかについての一端を知 らせる貴重な情報ソースとなっている。エホバの証人の組織はある種の平和な雰囲気に満たされている 。大会も信者の献身で盛り上がり、研究生達に「こんな人達と一緒ならだまされてもいいや」と思わせ る雰囲気がある。信者はお互いを「兄弟、姉妹」と呼び合い、「神に選ばれた兄弟」として認めあって いる。
 しかし、最終的な読後感は、やはりエホバの証人はカルトであるとせざるをえないというものであっ た。輸血を絶対に拒否するという一種の「殺人教義」を組織ぐるみで守ろうというのは、もはや非常識 という以前に、悲しいまでに馬鹿馬鹿しい。本書のクライマックスでは、大ちゃんが実際に事故に会い 、病院に搬送されて亡くなるまでの顛末が時系列的に綴られている。本人の意識が段々と薄れて行く中 で、病院のロビーでは集まってきたエホバの証人の信者達と医師達、そして警官達との激しいやりとり が繰り広げられる。何が何でも輸血をさせまいとするエホバの証人の信者達、それに黙ってうなずく両 親、あくまでも説得を続ける医師達、「それでも親かよ!」と叫びだす若い医師達、医師団とエホバの 証人の双方に「お前ら全員告訴だあ!」と怒声を上げる警官達。そこには「誰も何も出来ない」という 実にもどかしい雰囲気が醸成されてゆく。そして、むなしいままに時間は過ぎ、大ちゃんの命は静かに 消えてゆく。
 私はクリスチャンだが、私には亡くなった大ちゃんと同じ年齢の10歳の息子がいる。自分の息子の顔 を見つめながら、この子が大ちゃんと同じ目に会ったら自分はどうするだろうかと考えた。自分なら、 (血液型が同じであった場合は)たとえ自分の血のすべてを輸血してでも助けようとするだろう。それ がクリスチャンを含めた一般的な日本人の親の発想だと思う。さらに、もしイエスがそのような場にお られたら、一体何と言われるであろうかとも考えた。イエスなら間違いなく「輸血でも何でもして早く 助けなさい」と言うであろうと確信した。イエスなら、そこに助ける手段があるにもかかわらず両親が 何もせずに動かないというのであれば、自らが動いて子供を助けようとするはずである。
 いずれにせよ、エホバの証人はキリスト教ではない、それどころか多くの問題を抱える危険なカルト であるという事実を、特に我々日本のクリスチャンはもっと声高に喧伝しなければならないと感じた。 エホバの証人問題に対して積極的な行動をとってこなかった日本のクリスチャンこそ、本書を読むべき である。



教会音楽史と賛美歌学 (キリスト教音楽入門) 横坂康彦著

 著者はエール大学とコロンビア大学で宗教音楽学を学んだこの道の専門家で、本書には著者の知識が 全編に渡って盛り込まれている。キリスト教の教会音楽のルーツをユダヤ教の詩篇と単旋律聖歌に辿り 、中世、ルネッサンス、宗教改革、近代を経た現代までの歴史を概括的に記述している。著者はプロテ スタントのキリスト者と思われるが、それ故か、カトリックの音楽の記述については少々物足りない感 を覚えた。しかし、宗教革命以後の教会音楽については記述が堂々かつ理路整然としており、著者の真 骨頂が窺えた。特に、宗教改革からバッハの時代までの解説は実に詳細で、広範な知識が得られた。
 それにしても、宗教改革をやりぬいたルターとは、教会音楽の歴史においても巨人であったことを思 い知らされた。カトリックの司祭であったルターはカトリックのミサに精通し、それを彼の新しい教会 における典礼の原型とし、カトリックでは消極的であった会衆賛美を大胆に取り入れ、今日のプロテス タント教会の会衆賛美の礎のひとつとさせた。実際、彼自身36もの讃美歌を作曲し(多くが今日も残っ ている)、積極的に会衆賛美を促したことは、当時の時代背景を想像するに、極めて画期的なことであ ったと思う。  本書は主にクリスチャンに向けて書かれているが、ノンクリスチャンの人で、教会音楽に興味がある 人が読んでも楽しめると思う。一読をおすすすめする。



ぼくたちが聖書について知りたかったこと 池澤夏樹著

 これは久しぶりに面白いと思った聖書関連本。作家の池澤夏樹と、本人の親戚であり聖書学者である 秋吉輝雄との聖書に関する対談集。秋吉氏は旧約聖書学の碩学で、新共同訳聖書の翻訳編集委員も歴任 している。内容は、旧約聖書を中心にした聖書についての一般的なトピックを、池澤夏樹が秋吉氏から 「聞き出す」手法で解説するもの。聖書の成り立ちから伝承、キリスト教、イスラム教との関係性、そ して現代との関係等々、実に幅広く、かつ興味深く話が展開されている。
 個人的に特に面白いと思ったのは、旧約聖書を記した古代へブル語には「時制」がなく、過去も現在 も同一につながっているという部分。さらに、その旧約聖書がギリシア語に翻訳された際にヘレニズム 文化を包含した「意訳」がなされ、結果的にギリシア的な「時制の概念」が含まれるようになったとい う部分。これは、後に新約聖書が誕生するに際して、決定的な影響を与えたように思われる。
 また、ユダヤ人とは、その発祥から今日までの3500年の歴史において、いわゆるディアスポラ(離散 )の状態にあったのが普通であるというくだりも面白かった。歴史上ユダヤ人が国家を形成したのはダ ビデ王朝の時代とバビロン捕囚後、そして現代の、トータルでわずか500年しかないそうだ。今もユダ ヤ人は世界中に離散しており、その状態は3500年前からまったく変わっていない。今なおニュー・ヨー クにはイスラエル本国の人口に匹敵する数のユダヤ人が暮らしている。
 いずれにせよ、聖書に興味がある人には一読をお勧めする。ただし、ある程度聖書に関する知識がな いと理解するのが難しいと思うので、まずは聖書の大体の構成を学んでおく方がいいと思う。



なくてならぬもの 愛すること生きること 三浦綾子著

 三浦綾子が亡くなってから今年で10年になるが、三浦綾子の本は今でも結構売れているようだ。定番 の「氷点」や「塩狩峠」を初め、新約旧約聖書の解説本、そして本書のようなコラムも売れ続けている 。「キリスト」と一言語るだけで一歩引かれてしまう日本において、こうも堂々とキリストを述べ伝え る三浦綾子の書籍が、なぜこのように売れてしまうのかある意味理解に苦しむが、まあ、キリストの福 音を述べ伝えるという観点からは喜ぶべきことなのであろう。
 本書は、三浦綾子が亡くなる晩年に各地で行った講演をベースにしたコラム集である。晩年に書かれ たということもあり、すべての話でキリストの福音を紹介している。公的な場所で堂々とキリストの福 音を伝えたものだと驚くが、それを聞くまたは読む人々も、それほど違和感なくそれを受け入れたであ ろうという感をおぼえた。多分、三浦綾子はキリスト教の本質的な部分をしっかりと掴んだ上で各種の コラムネタを構成したので、聞く人に問題なく受け入れられたのだと勝手に想像している。我が国にお いては、キリスト教またはクリスチャンに関する小説・コラムネタはそこそこ存在しているので、三浦 綾子は、それを彼女の時間の許す限り、神に示されたスケジュールに従って、ひとつひとつ文字に記し ていったのだと思う。
 キリスト教の小説・コラムネタといえば、小生も先日、自分が通っている教会で小説になりそうなネ タを牧師の説教から教えられた。いつか時が来たら自分も三浦綾子流の小説を書いてみたいと密かに夢 見ているが、それがいつの日になるか、あるいは本当にできるかは、神だけがご存知であろう。
 キリスト教に全然縁や興味がない人でも気持ちよく読める一冊である。テレビによく出てくる自称ヒ ーラーの本とかを読む位なら、せっかくだからこういう本を読んでいただきたいと思う。



ひろさちやが聞く新約聖書 ひろ さちや著、荒井 献著

 ベストセラー作家のひろさちや氏と、我が国新約聖書学の重鎮荒井献氏との対談集。新約聖書の記事 を題材に、キリスト教の教義をひろさちやが「聞き出す」スタイルで綴られている興味深い一冊。そう いえば、ひろさちやって前に家に泥棒に入られて現金をたくさん盗られていたなあ、という感じで軽く 読み始めたが、中身は、なかなかどうして結構充実していて甚だ圧倒された。イエスがユダヤ教の律法 主義から人間を解放したが、ユダヤ人の弟子のマタイは、師のことばを自分流に解釈し、改めて律法主 義的な記述をして「先祖返り」してしまったという意見は大変興味深かった。仏教徒のひろ氏とキリス ト者の荒井氏が、イエスと親鸞って実は結構似ていますね、という感じで意見を一致させていたのも面 白かった。
 一方、ひろ氏ほど聖書に詳しい人でも、そこに書かれていることを「信じない」ものなのだなあ、と 別な驚きも覚えた。聖書に記されていることを読んで「知識として吸収すること」と、「信じること」 とは、まったくもって別次元のことなのだと改めて認識させられた。やはり信仰とは「神から与えられ るものである」とするしかないとか言ってしまうと、それはそれで(神を信じない人達から)怒られて しまうであろうが。
 宗教に興味がない人にとっても、色々な意味で楽しめる一冊だと思う。




過去の書評



About book reviews...

最近読んだ書籍の感想を、主にキリスト教関連書籍を中心に、アップし ています。